わたし、柴田敦子が、片づけとファッションを仕事にするに至った、生い立ちから人生観まで。

フランドストーリーをご紹介しています。

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片付けは苦手、おしゃれは得意なお母さん

モノが多く、ごちゃごちゃした家に育つ。 家の中が雑然としていると、落ち着かない気がしていた。

小2にときに、部屋の模様替えをしたら心がワクワク、空間を整えると心が躍ることに気づいた。部屋が好きな空間になるだけで、家に帰るのが楽しくなり、自分の部屋だけはいつも整えるようになった。

母は、片づけは苦手だけど、洋服のセンスがよく、小さい頃からよくデパートへ一緒に買い物へ連れて行ってくれた。

洋服の選び方や、合わせ方は母がお手本だった。中学生の頃には、部屋に全身鏡を置いて、洋服を合わせていると、上下のバランスや、色の合わせ方がなんとなくわかるようになった。

学生時代は暇さえあればウィンドーショッピング。名古屋中のデパートの、どの階にどのブランドがあるか覚えていたし、たくさんのお店、洋服を見ることで、お店の前を通るだけでどんな服がどれぐらいの価格帯で売っているのか?どんな人に似合いそうな服なのか?大体把握できるようになった。

当時の名古屋は、巻き髪、スカート、ロングブーツ、ブランド品がトレードマークの「名古屋嬢」と呼ばれる女子力高め、キラキラファッションのスタイルが大流行り。

ちょっと派手な女子校だったこともあり、まわりはほぼ「名古屋嬢」だった。少し真似をしてみんなに馴染もうとしたものの、違和感しかなく我が道をゆく。

似合わない服を着て、私の良さは表現できない。

大学を卒業し、当時は就職活動のときのスーツはリクルートスーツと決まっていた。私は、リクルートスーツが苦手で壊滅的に似合わないことが自分でわかっていた。

みんなが同じ服を着ることも嫌だし、紺色の地味なスーツも嫌だし、好きでもない服を着ることがどうしてもできなくて、紺色でスーツ風のZUCCAのセットアップを着て、自分なりの抵抗をした。